男とか女とか・その1

ある作家さんが、IKKOさんのトークショーに女性の行列ができているのを目撃し、「オカマの話を聞いてどーする。世の女性方はああなりたいのか?『女性の品格』を体現しているのは実はオネエキャラということか」と日記に書いていた。
そして、こうも書いていた。
<追記。オナベから「男としての生き方」を学ぼうとする男はいないだろう。むしろ「そんなものは偽物だ」と忌避する場合が多いんじゃないかな。このへんに男女の考え方のちがいがうかがえておもしろい。>
(注:HPを念入りにチェックして、どこにも禁・無断転載/無断引用と書いてなかったので引用させていただきました。ちなみにある作家さんとは殊○○之さんです)
ひとつめの引用文、こちらの解釈では「ああなりたい」というより、「彼がめざしている女性像について学びたい」というのが本当だと思う。オネエの人たちの中でも、アートや事業などで成功している人たちの美意識はハンパではなく、なかでも彼らが「アタシこうなりたいの」と思い描く女性像というのは、もう「品格」をクリアするのは当然のこと、「究極」まで行っている。
私は昔、英米文学というのを専攻していて、その時の講義で印象に残っている言葉に「フローベールよりもフローベール的」というのがある。
アメリカの作家は、おしなべてヨーロッパの作家に憧れる。なぜなら、彼らの背後には、アメリカで生まれ育った作家が逆立ちしても手に入れることのできない「歴史」がどどーんとそびえているからだ。どんなに高価なアンティークを手に入れようが、ヨーロッパ風の暮らしにこだわろうが、あの光や影や色や空気に包まれて生きてきた人たちと同じ文章は書けない。
だがそれでも、いや、だからこそ憧れは募る。で、どうなるかというと、あの『ボヴァリー夫人』を書いたフローベールよりも、もっとフローベールっぽいものを書いちゃうというわけだ。
それはある種の過剰さとして表れたり、不自然なまでのスキのなさ、完璧主義として表れたり……するのだろう。
これは、オネエが「本物の女」をめざすあまり、女を超えてしまうのと同じ構造である。(長くなったがこれが言いたかった。)オナベの場合も同様だろう。
で、女はオネエに学ぶが男はオナベに学ばないというのはなぜか。
要するに柔軟性とプライドの問題ではないか。
でも、柔軟性はあったほうが、ちまちましたプライドはあまりもたないほうが、トクする場面は多い。
「イロモノっぽく露出しているけれど、でもプロとしてすごい人なんでしょ?しゃべってるところなんかも感じいいじゃん?あのゴージャスな生活ぶりも気になるじゃん?その人からもしなにか得るものがあるんなら、男か女かとか、年がどうとかいうのはどうでもいいんじゃない?とにかくお話聞きたいから並んじゃうわよ私は」
そう素直に思える人が多い、のが女なんだと思う。
だいたい、究極の女について、ヘタな女が語ると「で、自分は?」と激しいチェックが入る。ヘタな男が語ると「自分に都合のいいことを」とヒンシュクを買う。ところがオネエという「男と女の中間的存在」で、しかも「キャラが立っていて美に敏感」と認定された人の場合、そのどちらもまぬがれるのである。
マジメにいえば、生物学的に女じゃない人には女の生き方は語れないとか、生物学的に男じゃない人には男の生き方は語れないとか、そんなことはない。逆に、心と体の性別が一致していない人たちからは、自分の来し方行く末を考えてみるためのヒントを、ふつう以上にもらえると思う。そういう人たちが自分と向き合ってきた時間の長さと、その内容の深さは、ハンパじゃないはずだから。













Recent Comments